JO1の「ICY」をクィア(Aロマ/リスロマ)に読んでみた
JO1の9th SINGLE『WHERE DO WE GO』に収録された「ICY」の私なりの解釈をまとめたブログです。なんかリスロマンティックや、Aロマンティックの曲に思えるという一ファンの感想です。
私は音楽にもダンスにも詳しくなく、クィア理論の専門家でもなく、クィアリーディングといえるほどの内容があるかも分からないです。
ここに書かれた内容が様々なクィアを代弁するわけでもなければ、用語や概念の用い方や解釈も、人や文脈によって異なることを前置きしておきます。
音楽についても詳しくないからほぼ歌詞にしか触れていません。曲と歌詞が完全に切り離されるものとも思えないので、多分これはとても半端な話だと思う。
ICYってAロマかリスロマの歌じゃない?
「ICY」は"恋に落ちたけれど、すぐに心が冷めてしまった自分に対する後悔と、相手に対する難解で複雑な感情を表した楽曲"とのことで、端的に言えば「蛙化現象」の歌だとメンバーも言っていて、実際に楽曲の説明としてどこかしら記載されていたという話だった。が、肝心の出展を忘れたので後半部分は話半分でお願いします。
ただ、私は初めて聞いた時から、これは「Aロマンティック(アロマンティックと表記されることのほうが多い)」ないし「リスロマンティック」の歌として解釈できるのではないかと思い、Twitter(Twitter)でもたびたびそのようなツイートをしていた。その話が、だんだん長くなってとっちらかっていったので、それらのツイート(ツイート)を元に私なりの解釈をまとめていきたい。
一応説明しておくが、Aロマンティックとは「他人に恋愛感情を抱かないセクシュアリティ」、リスロマンティックとは「相手に恋愛感情を持つが、その相手から恋愛感情を持ってもらうことを望まないセクシュアリティ」のこと。
ただ、その在り方は人によってそれぞれ だ。
Aロマ/リスロマだからって他人と絶対に付き合わないってことではないし(そもそも「付き合う」という行為/関係のあり方は人によって違うし*1、AロマはAセククシュアリティ(他人に性的関心がないセクシュアリティ)ではない。リスロマもしかり。(勿論AロマでありAセクである人もいる。リスロマもしかり)
「どういうこと?」と思った方は一度自分で調べることをおすすめする。
一つ言えるのは恋愛や性的な物事への向き合い方・あり方・感情を「こうである」と規定することは不可能だということ。
(セクシュアリティやそのあり方、概念やその定義は常に当事者による議論がある)
Aロマやリスロマと蛙化の違いは、前者がセクシュアリティなのに対し、後者は現象であること。ただ「蛙化」を体験したり共感したりしていた人の中にはAロマやリスロマだった人もいるのかもしれないなあとか私は想像する。
本来の蛙化か、現在の蛙化か
そもそも蛙化現象は元々の意味と、その後言葉が広がる上で変わっていった意味と二つある。
元々は「好意を持つ相手が自分に対して好意を持っていると分かると、それがきっかけとなってその相手に嫌悪感を抱いてしまう現象」という意味であり、のちに「相手の些細な行動や仕草で、好きな人を嫌いになってしまう現象」として使われ広まった。*2
「ICY」を蛙化現象の歌として読む時、どちらの意味の蛙化現象だろうか。
歌詞を見ていくと、歌の主人公たる人物は、相手からの恋愛感情を感じ、告白された瞬間から「何かが違う」と己の感情に違和感を覚えている。
恋を感じる瞳 愛を告げる君
何か違う this ain't it.Uh…
となると前者の、元々の意味の蛙化に思えるが、相手に対して「嫌悪感」まで覚えたかは分からない。気持ちは冷め、相手の端々に「合わなさ」を覚えている一方、後悔や相手に対する罪悪感を抱いている。
そして「時を戻せたら / 何か変えられるのかな / 何か違う二人に」とも歌ってる。「違う二人」というのは違う関係性の二人とするならば、「恋人」ではない形で関係で持続したいと望んでいる、と読むことが可能だ。あるいは、相手を傷付けないですむ未来が欲しかったのかもしれない。相手に対する嫌悪感まではないのではないかと思う。
であるならば、これは元々の意味の蛙化現象ではない。
加えて、「よく考えてみれば何もかも合わない気がした」として、出てくるのが香水や好きなプレイリスト、絵文字、周囲の人間関係であることは、些細なことで気持ちが冷めていくという拡大された現在の意味の「蛙化現象」とする読みを補強する。
「相手からの告白」がきっかけとなったのは、恋に落ちてから今まで視野狭窄状態だったが、相手に好きになられていざ交際が現実味を帯びた時に、冷静にこれから先を予測するようになり、今まで見えなかったもの、見ようとしていなかったものが見えるようになった、とも解釈できる。
恋人同士だった時は良好だったけど、結婚になると不安や違和感を覚えるようになる、という現象はよく聞く話だ。
(それは「結婚」という生活環境にも影響を与え、法的に規定される大きな変化だからだ、と言われるかもしれない。けれど、その見方は「結婚」というものをやたらと特別視していると思う)
どのような関係性であれ、関係性の変化はその人達に影響を与える。「好きになる」ことと「付き合うこと」は全く違う。「好きならば"当然"付き合いたい」ものだというのも違う。それに気付いたからこそ、相手の見方が変わるということはあり得る。
世の中は、「恋愛」と「結婚」(そして「出産」「育児」)だけではなく、「好きになること」と「付き合うこと」まで含めてプリセットにされていて、どちらもその弊害といえるのかもしれない。
以上の点を踏まえた上で、Aロマ/リスロマ解釈へと広げていく。
リスロマンティックとAロマンティック解釈
キーポイントとなるのは、「なにか違う」となった以降も「相手」ないし「二人」をまだ特別視していて、未練があるのか、かなり感傷的だと読めることだと思う。
特に私が重要視するのが以下の箇所だ。
君が僕の手を取って
僕も君の手を握って
二人であったあの場所へ
take me come back again
僕の手を取ってとか握ってとか、中々そんな風に言わないと思う。まあ歌だからと言われればそれまでだが、少なくとも相手に特別な思いがあるのは確かだろう。何かしらのドラマティックな出会いがあったのかもしれない。
先述の蛙化解釈の際にも触れたが「時を戻せたら / 何か変えられるのかな / 何か違う二人に」とあり、これは「恋人」以外の関係性で「二人」で居続けたかったとすると、相手や「二人」の関係性に執着や未練があり、何か得難い(すなわち失い難い)「特別」なものだったと認識しているとも読める。
リスロマンティックの解釈でならば、恋愛感情はまだ強くあって、だからこそ恋人ではない関係性のままやっていきたかったと読める。
ただネックなのは、相手の香水や好きな曲、絵文字、人間関係などの些細な物事に「合わなさ」を感じていることだろうか。
けれど、まだ己のセクシュアリティに気付いていないのだとしたら、なんとか「付き合いたくはない/好きになられたくない」という感情に折り合いをつけようとしているからだと読み解くことも可能だと思う。
Aロマンティックの解釈をするならば、楽曲の最初の方で「Falling in love with you」と歌っていることがネックだろうか。
しかし、私はこれ本当に「恋」だったのかも疑っている。
(異)性愛が前提の社会において、他者に対する強い気持ちは恋愛に解釈/還元される。世の中の人間は当然「異性愛者」と見なされ、そうではない存在は認識すらされづらい世の中では、非異性愛者の人間でも、自分を「(異)性愛者だ」と認識して/思い込みたくなってしまってもおかしくない。主人公が自分の感情すら、社会規範に当てはめて(異)性愛であると解釈してしまった可能性は十分ある。*3
本当は恋愛ではない感情を抱き、相手に入れ込んでいたが、相手が恋愛を持ち込んできた故に自分の「恋愛感情」だと思い込んでいた「恋愛感情」に疑念が生まれ、「自分が思っていたのと違う関係性になってしまう」と気付く。そして「考えてみれば違う価値観や環境の人間だった」とリスロマ解釈と同様の形で((異)性愛規範に沿う形で)、自分の感情に折り合いをつけようとする。
でも、歌の主人公にとっても、恋愛ではないその大きな感情は「自分でも知らない感情」であるために、自分も振り回され、相手も振り回してしまう。自分のセクシュアリティには気付いていなかった/まだ気付かない、という歌として聞くことはできる。
Don't know why my heart is I-I-ICY,ICY
なんにせよ、過去も今も相手への気持ちが強すぎるのが私のこの解釈のポイントだ。相手に対する嫌悪感もなく、気持ちは冷めたといいつつ感傷的で重たい未練があり、でもそれは恋心ではないとするならば、Aロマンティック解釈は全然通用すると思う。
最大のネックは「タイトル」と「振付」
ここまでAロマ/リスロマ解釈のネックとなるポイントを説明してきたが、それは歌詞内容においてであって、最大の問題はほかにある。
一つは「タイトル」そのもののワードであり、二つ目は「振付」だ。
タイトルの「ICY」は、「氷のような、とても冷たい冷淡な」という意味だそうだ。
そして、Aロマやリスロマのような、従来の異性愛規範に沿わない人間が、「人を好きになれない/付き合えない」=「冷たい」人間だと評されている偏見は現実にある。
Aロマやリスロマが受けるよくあるマイクロアグレッション、差別の一つだ。
「恋愛感情(交際する意思含む)=人間的」「恋愛感情がない=非人間的」というのは誤った見方だ。考えなくても分かるが、分からないなら考えてみてほしい。
人は恋愛感情がなくても人に優しくできるし思いやれる。逆に恋愛感情があったり人と付き合ったりしていても平気で人を傷つけるような奴はいる。
恋愛感情を抱かないことは欠陥ではない。同性を好きになる気持ちが欠陥でないのと同じように。
ICYの歌詞を見てみよう、そこには後悔や相手に対する罪悪感が綴られている。
私はこれを見て「非人間的」だとは思わない。むしろそこには温度があり湿度があり、人間らしい生々しい感情がある。
にもかかわらず、「恋愛感情」の有無やあり方によって人間性や非人間性が評価される。それこそが世にはびこる(異)性愛中心主義であり恋愛至上主義だ。
この歌に対する様々な反応のうちの一部には、この歌の主人公は「クズだ」というものがある。
歌詞を見れば、気持ちのことしか歌ってなくて具体的に相手に何をしたとかの描写ないのに「クズ」とか言われるのは個人的に不思議だ。
勿論、歌になってる時点でそれを「言われた」気持ちになるのかもしれないし、のちに「振られる相手」へ感情移入してそう罵りたくなるのかもしれない。気持ちは分かる。
でも心変わりはクズなんだろうか? 感情はコントロールできるものでもないし、ましてそれが自分がまだ自覚していないセクシュアリティによるものだったとしたら?
相手を振り回すのも傷付けることもよくないが、それは恋愛以外でも当然起こりうる人間同士の摩擦ではないんだろうか。
付き合って時間が経ってから心が冷めるのは人として冷たくなくて、相手に好きになられて冷めるのは人として冷たいのだろうか。
こういうことを突き詰めて考えていくと、「恋愛とはかくあるべき」な規範を感じる。感情や気持ちの在り方すら、ジャッジしようという力がこの社会にはある。
もし罵られるべきものがあるとしたら、多様な恋愛感情や指向を持つ人間がいて、いつだって恋愛は多様な形で終結することをひた隠しにしている、その社会の力じゃないのか。
そもそも、異性愛主義やロマンティックラブイデオロギーや恋愛至上主義を、何も疑うことなく受け入れて生きている方が私には「アンドロイド」的に感じられる。
社会に根付いているそれの方が真に不気味であり、違和感を持ち葛藤していく様には、十分に人間味があるだろうと思う。
(私はもし、ICYくんに会ったら、「ICYくんは冷たくなんかないよ!」って言ってあげるんだ……会って話してみないと分からないこともあるけど……だったらちゃんと話を聞いてあげるんだ。力になるよ。人と話すの苦手だけど。まあ人じゃないけど)
少なくとも、この歌詞内容だけをとれば、この人物の「恋心」のようなものは「冷めた」のかもしれないけれど(元からなかったのかもしれないけれど)、まだ相手に対しての罪悪感や思いはある。それは人間味のある感情だ。でも、当人が自身を「冷たい」と感じてしまう要因も先述したように明確だ。
Aロマンティックやリスロマンティックのような存在が想定されていない社会の中では、自身を何も感じない氷のように言われても否定することができないし、逆に氷にならければやっていけないのかもしれないし、自分をそうさせてしまう社会の冷たさを表すのかもしれない。後ろ二つはかなり無理やりな解釈で、私が社会を批判したいがために書いたが、歌の解釈にはそういう役割だってあると思う。
そして二つ目のネックは「振付」だ。
ICYの振り付けは、"漂う不気味なムードの中で“冷めた心”を表情や人間味のない関節の動きで表現し"ている。
はっきり言われてしまった。
この曲は「人間味のない」、そして「不気味」なのだ。少なくとも振り付けはそういう解釈のもとにある。
(それはAロマうんぬんよりもまず人を好きじゃなくなる気持ちの変化自体不気味とか非人間的なものとして描くんだみたいな批判ももしかしたらあるかもしれない。私はコレオグラフィー含めてこの曲が好きなので真っ向から否定するのが難しいが、実際そういうところにまで踏み込んで考えてみるのもよいのかもしれない)
私は音楽も分からないので、ここまで歌詞に対する話ばっかりで曲については全くアプローチしていない。そして、ダンスが分からないので、これにはなかなか太刀打ちしづらい。
素人から見た印象だけの話になるけど、まあ別にずっと非人間的で不気味かっていうと違う風に思う。例えばメンバー同士が絡むような個所では感情が見えるような、芝居の入った動きをしていると思う。碧海くんのパートとか結構顕著じゃないだろうか。表情だってずっと無表情ではない。
まあ身も蓋もないことを言うと、人間が踊っている以上それは「非人間的に見える人間の動き」だし、大体人間だって不気味な生き物だ。それこそ、人によっては恋愛感情の方が不気味なものだ。
メンバーによって解釈も異なるだろう(瑠姫くんなんて「元々好きじゃないんだろうなって思う」なんて厳しいこと言っている。)
この点に対しては私が言えることがほとんどないので、誰かダンスに詳しい人に何かしらの解釈可能性がないか聞きたいところである。
ちょっと違った解釈もしてみる。
この曲を、「アイドルとファン」の関係を投影して見た時、これは「ファン側」の心理の方が近いんじゃないか、と思ったので余談だが書いてみる。
一瞬で好きになって、リアコ!ガチ恋!結婚して!って言うけど、よく考えたら音楽の好みも解釈不一致だしSNSの絵文字の使い方キモいし、あーそういう人とお友達だったんだ……出会った頃のあの子が好きだった……とか、ありがちじゃないだろうか。
推しに蛙化したなんて話もよく聞くし(広義の意味の蛙化)、まずないにしても、リアルで付き合うのは無理ですなんて話で盛り上がっているのも見たことある。
オタク心こそ移り気で自分勝手、みいなところもある。
実際のところ、様々な関係性でのより幅広い解釈が可能な曲だと思う。
また、いろいろな反応を見ていると、この歌の主人公を「男性」と見ている人が多い感じがして(私もICYくんとか言っちゃってるけど)、一人称が「僕」だし、男性アイドルが歌っているからかもしれないが、一人称が「僕」の女性はいるし、歌う人と違う性別の歌なんてのも全然ある。女性の歌う曲の一人称が「僕」なのもよくあるが、その一人称によって歌の主人が男性と解釈されるわけではないし、むしろ性別を規定しすぎないための「僕」みたいなのもある。
そして、相手の性別を表すようなワードはない。当たり前に異性愛とする聞き手が多いことはどうしようもないが(実際にこの社会が「異性愛」がデフォルト設定されてしまっている以上)、指摘ぐらいはしておきたい。
以上、私がいろいろTwitter上でしていた解釈をまとめてみたら非常に長くなった。
でもそれぐらい、様々な語り方を許容する強度のある楽曲のように思う。私は歌詞ぐらいにしかまともに触れていないが曲自体もっと面白いのだろうし、そちらからアプローチしていくこともできるんだろう。
幅広い解釈がされてほしいけど、そのためにまず異性愛的な解釈を切り離してみたかった。別に異性愛的解釈が間違っているということじゃない。むしろ異性愛で、ただの蛙化の歌で、って解釈した方がしっくりくる部分だってある。
でもJO1に限らず、アイドルにファンダムにいると強固に根付いた異性愛規範をいやでも感じざるを得ない。これは私のちょっとした抵抗だ。たぶんほんの数人にしか読まれないし、ほんの数人にしか望まれていないかもしれないが、こういう解釈があり、こういう解釈をする人間がいることは、見られていなかろうが提示しておきたい。
アイドル業界に異性愛主義は根付いている。歌っている人も聞いている人も当然のように異性愛者だと、ファンにも、そしてアイドル本人にすら言われることがあるが、違うよ。
*1:一定年齢以上で付き合うとセックスは当然するものという雰囲気があるが『あの子の子ども』の飯田は矢沢とセックスなしでもいいとして付き合いましたよね
*2:蛙化現象とは?〜よくある例や不運にも遭遇したとき の⼼構え
山梨の銀行がやっている観光サイト? 何故こんなコラムを……?
*3:社会は異性愛が前提だが、それが少し弱まってきている向きはある。しかしAロマやAセクの存在は認識されておらず、異性愛者でなかろうがゲイとかレズビアンとかバイとかパンとか、誰かに対して恋愛感情は抱く「"アロ"ロマンティック」、だと認識されることには変わりなかったたりする。ちなみにAロマを描いた映画『そばかす』にはそんなシーンがあったりする。なので『(異)性愛者』というようわからん表記にしてます。ロマンティックラブイデオロギーとかのが良いのかななあ分らんなあ。
人間の境界 感想
ロシアによるウクライナ侵攻がはじまった当初、ポーランドをはじめ近隣諸国が多くのウクライナからの(避)難民を受け入れたのに対して、それまでずっと中東やアフリカ、アジアからの難民には門戸を閉ざしていることへの批判や皮肉が多く聞こえてきたが、まさにそのことを描いた映画だった。
ベラルーシからポーランドの国境の狭間で、水も食料もまともな準備もなく、時に両国の警備隊に暴力を受けながら何度もプッシュバック(押し戻)され、さ迷うことになる難民達。人によっては三十回もプッシュバックされ国境と国境の間を往復する人々もいるという。それでも、生きながらえていることが、"運が良い"ことになってしまう状況だ。
難民達は西洋諸国への"攻撃"として、策略的に送り込まれてしまった人達で、当然ロシアの被害者とも言えるのに、ウクライナの人々のようには受け入れられはしない。時には妊婦すらフェンスの向こう側へ放り投げられる。
かつて私の読んだ記事では、ホースで放水して難民達を追いやっていたという話もあった。極寒の中、そんなことをすればどうなるか、想像は難くない。
「人を人として扱わない」ことへの怒りを徹底的に描いた映画だ。
「人」とは決して肌の色や生まれた場所で定義づけられはしない。
登場する難民の人達の背景や描写は非常に考えられている。というよりも、現実に即して描こうとすれば当然そうなるのだろう。
肌の色も国籍も難民となった事情もそれぞれ異なっている。かれらは決して「難民」という一面的存在ではなく、"後進的"な国からやってきた弱い人々でもない。被害者としてのみ描くでも理想化するでもなく、ひとりひとりの、たくさんの背景を持つ人間として描いていた。
例えば、アフガニスタンからやってきた女性。お金には困っていない、語学は堪能で、教養があることが随所に見える……彼女は復権したタリバンから逃れるためにやってきた。女性として、自由を得たくて。(かつてアメリカが自分の起こした戦争を正当化するために持ち出してきたものが「女性の権利」であったこと、欧州の国々もアメリカを支持したことを思えば、西洋諸国(そしてきっと日本も)が難民達の現実に向き合っていないダブルスタンダードが克明になる)
また主人公ともいえるシリアから逃げてきた家族。かつてイスラーム映画祭で『ゲスト:アレッポ・トゥ・イスタンブール』という映画を見た。シリアのアレッポに住んでいた人達は、爆撃を受けるまで、ごく当たり前に家を持ち、仕事を持ち暮らしていたことを思い知らされたことを思い出す。そしてシリアもまたロシアによって国を破壊されている。シリア難民の家族は二重でロシアの被害者である。(そしてそもそもシリアの国の状況に向き合っていれば、ロシアによるウクライナ侵略だって……と考えてしまう)
この映画は、難民以外の人々からの視点でも描かれる。ポーランドで難民たちを追い出す国境警備隊の青年の物語も印象的ではあるが、私はやはり難民たちを助けようとする活動家達の話が良かった。
というのも、前述の私がかつて読んだ記事で、まさにこの活動家達の話があった。
活動家といっても、なにも特別すごい人達ではなく、若者と、たまたま国境の近所に住んでいた人達だ*1。なにかものすごい権力があるわけではない。かれらの持っている唯一の力は「国境の外へ追い出されない」という立場だけだ。
記事の中では、すでに支援者たちも限界に近いという過酷な状況が訴えていた*2。映画に登場する活動家たちはみな個性的でしたたかで強い人々だった。現実に、作中の人々のような人もいるのだろうし、厳しい状況の中で希望を描き出そうとしていたのだと思う。
個人的に、非常に突き刺さった台詞がある。支援活動を手伝おうとする後半の主人公とも呼べる人物に、それなりに長く活動してきただろう若者が「自己評価を上げたいだけのリベラルだと思ってた」というようなことを言う。まさにそういう口だけの「リベラル」と思われる人物は作中に出てくる。
これは単純な「リベラル」批判というよりかは、"人道的な西洋人"というイメージそのものへの批判もあるかと思われるが、反面「自分も結局は保身に走るかもしれない。難民の人々たちよりははるかに安全な立場であるにも関わらず」と思わされもする。
実際に、森に閉じ込めると入官に閉じ込めることの差違ってどれだけなのかとも思った。もちろんそれぞれ違った問題点もあるし、完全に一緒くたにするのも傲慢だが、私が今住んでいるこの国と、根底に共通するものがあるのも事実だ。
(別に選挙に行くだけで、署名をするだけで、それは確かに"行動"だとは思うが、いざという時がいつか私にだって訪れるかもしれないという可能性からは完全に逃れられるわけでもない。私は本当に"できる範囲"の行動が取れるだろうか。その範囲ってどうやって決まるのだろう。私は、せめて車を貸すぐらいのことはできるだろうか。せめて、かれらのような存在を見逃すことができるだろうか……作中ではそうした「ささやかな良心・善意による行動」もある。それも"希望"かもしれない。でもそもそも、私の立場だって完璧なものではないかもしれないけれど)
作品で描かれる"希望"(のようなもの)は他にもある。
支援者に助けられ、ある家に匿われた若者達(おそらく黒人かと思われる)が、その家の子供達と交友を持つ。
かれらの間には、難民と難民にならなくても済んでいる人々というあまりにも大きな立場、力の差がある。その友情や関係性がどれだけ対等かはおいておいて、しかしそうした全く異なる出自と立場の者たちだけど、同じ歌を歌える。
それはインターネットが当たり前の時代性を感じさせ、遠い存在に思える難民たちも同じ時代の中にいることを示している。そして、インターネットさえあれば我々は「知れる」し「知らせる」ことができる、そしてつながることができる。
もちろん「知った」からこそ難民達はベラルーシやポーランドを経由するという罠にはまってしまったわけだが、それでも知ることは力だ。
ポーランドとベラルーシの国境でいかに残酷で恐ろしいことが行われているか、そして世界各地で過酷な環境に置かれている難民達だって同じ時間同じ世界で生きる人であるという当たり前のことすら、私たちは、安全な居場所を持つ人達は、知る必要がある。
トラペジウム 感想
JO1の木全翔也くんが声優として出演しているから見に行った。昨年からJO1を好きになったからである。あと、アイドル好きだからというのもある。
結論からすると、想定していたよりは全然面白かったけど、いろんな問題含みな作品だと思った。
特に登場する車椅子の少女の扱いと、女装シーンにおける典型的な"オカマ"描写
があったことだ。
後者の方の何が問題かは分かりきっていることなので省く。分からない人はNetflixで『トランスジェンダーとハリウッド:過去、現在、そして』とか見てほしい。
前者は、作品の根幹とも関わるので後述する。
この作品の主人公はわりとはっきりと「嫌な奴」として描かれている。動機も行動も、非常に独善的で、視野は狭く、ちょっとそれはどうなんだ?と思ってしまうようなことを躊躇なくする。
私は、これは制作者の意図としてそうなのだと思っている。
また、主人公が嫌な奴であるために(そしてアイドル業界の構造的問題のために)発生する人間関係の軋轢も結構がっつり描いている。が、あまり露悪に振り切ってはいないところはわりと好みだった。
ピカレスクロマンではなく、主人公の独善的で目的のために他者を利用する非倫理性は決して魅力に転嫁されない。盛大に失敗し、他者を傷付けて、自分の努力を自分で台無しにしていく。私は高校生(に限らないが)の倫理観をあまり信じていないので、ここまでではないかもしれないが、でも或いはこれ以上に酷く愚かなことをしてしまう人もいるだろうなあと思って見ていた。
ちなみに、アイドル活動自体も全肯定でも全否定でもない塩梅では一応ある。ただしそこまで深く掘り下げられるテーマではなかった。向いている人は良いけど、そうでない人にとっては大変なことだという程度の描写に収まっていた。
私の意見と異なる感想もいくらか見た。
最大のポイントは、「主人公の問題点に制作側も無自覚なのではないか?」「或いは倫理的に間違っていることを無自覚に肯定してしまっているのではないか?」というところだ。
私はさきほど制作側が自覚していると書いたが、そうではない解釈になるのも分かると思った。
主人公の行動に対する清算が甘いというのもあるが(主人公が策略としてやっていたことのどこまでを仲間が把握していたのかが分からないし自らきちんと開示していない)、なにより前述した車いすの少女の扱いが最後まで酷かったからだ。
実際のところ、制作側は分かってるところと分かってないところがあるんだろう。
作中にある「善行アピールのためのポランティア」は、(最近あるのか知らないけど)内申書のためのボランティア活動などを私自身が見聞きしたこともあり、傲慢な行いとして世間にある程度最周知されていると思う。
なので、主人公が善行アピールのためにボランティアに行くのは、わりと最低な行為として描いているとは思う。(ただボランティア自体は役割は全うしていたのでいいだろうという意見もあるのはあるのだろうし、もしかしたら制作側がそういう認識で描いている可能性はある)
けど、車椅子の少女が、アイドルに憧れているにも関わらず、コスプレでアイドル衣装を着ることすら躊躇うシーンを描いて、「(車椅子だとなれないから)代わりにアイドルになってあげる」という流れにするのは、本気で良い話として書いてそうだった。
車椅子のアイドルは現実にいるのに。
「車椅子だと、義足だと、アイドルになれない」というのは、メッセージとして酷いものなだけではなく、現実にも反している。もちろん車椅子や義足の子がアイドルになって、アイドル活動をすることの障害はたくさんあるだろうが、絶対にありえないとは言い切れない程度には、日本のアイドル業界は多岐に渡っている。
こうした無自覚な差別意識というか偏見のようなものが感じられるため、「どこまで分かっていて描いているのか分からない」という不安や疑念が生まれるのは確かだし、主人公の反省も甘いので、主人公のやっていることが問題と思っているのか?と思うのももっともだ。
ちなみに、この「代わりになってあげる」と言うシーンと、先ほど言った酷い女装のシーンは同じ文化祭のエピソードだ。なのでこの辺りエピソードを丸々カットしてしまえば良いのではと思う。
まあ、ここでのエピソードがラストに生かされてしまう重要なシーンなのだけど、私はエピローグも不要と思ってるので丸ごとカットでいい。
そもそもこの映画終わり時を間違えている気がする。主人公が最後に、「諦められない」的なことを言った直後の暗転で幕を閉じた方が綺麗だった。
それに、主人公がどうなったのか分からない方が、駄目だったのだと思い溜飲を下げれる層もいるだろうし、視聴者の価値観に想像を任せた方が良かったように思う。
あのエピローグのインタビューがなければ、主人公のある意味の「変わってなさ」が見え、清算の甘さを更に印象付けることもなかったので。(ただ、あれはあれでリアルではあるのかなあ、とは思う)
(追記:きまちゃんの声のお芝居はめちゃくちゃよかった!)
バジーノイズ 感想
ほぼほぼJO1の川西拓実くん目当てで見に行った。昨年からJO1を好きになったからである。
結論を言うと、映画としては悪くはないんだろうけど、あんまり好きじゃなかった。
原作は読んでいないが、原作者の方がTwitterに第一話だけ掲載されていてそれだけ読んだ。その時、うっすらと感じた嫌な予感の一つが当たっていた。
私は潮がいわゆるマニックピクシードリームガール*1ではないかと思って、悲しいことに映画を見終わった今も潮がマニックピクシードリームガールのようだったと思っている。なんなら、後半から終盤にかけてはマニックピクシードリームボーイみたいな人達まで現れる。
潮達が完全に全くマニックピクシードリームガールかといえば、そうじゃないという意見もあると思う。
少なくとも潮に関しては多少は彼女自身の人生を垣間見せる瞬間もある。でも、私にとってはそれはほんのわずかで、彼女の物語は最終的に、清澄に求められることによって肯定されるように見えた。
(ちなみに最後が「ちゃんとした会社」で「ちゃんとした会社員」のようになることが「ちゃんとした人生」みたいな描写だったのも嫌いだ。飲食店の店員やスナック的な店の従業員から会社員になることが当然のステップアップみたいなのが気に食わない。)
恋愛でも友情でもなく相互的に与え合う関係と言えば、アーティストとファンの関係を「生産者と消費者」という形に還元しない相互的関係と再解釈したと言えば、聞こえは良いし先進的に評価できるかもしれない。でも、私はそういう受け止め方はできなかった。
清澄は潮が何に葛藤してたのか、下手をすれば葛藤していたことすら知らない。潮が勝手に葛藤して勝手に消え、だけど清澄に求められていると勝手に気付き、勝手に反省して、勝手に戻ってきて救ってくれる。
マニックピクシードリームガールのずるいところは、MPDGはエキセントリックで身勝手な行動をするので、物語の中でどれだけ男にとって良いものしかもたらさない存在であっても、「迷惑をかけられている」とか「それでもそんな奔放な彼女を受け入れる」という名聞で、一方的に与えられるだけという男の情けなさを透明化し、男の器やプライドをを担保してくれる。その都合の良さが嫌いだ。いや悲しくなる。
私はもっと潮に、清澄にとってとんでもなくわけの分からない存在でいてほしかったんだと思う。
絶対的に理解できない、絶対的に都合の良くない存在が、私にとっては「他人」だ。
潮は身勝手だけど、清澄をフォローし、肯定し、救ってくれる。しかも、ちゃんと彼の意思を尊重し、ある種の押し付けがましさすら自覚した上で、彼がどんな選択をしようがリスクはないとお膳立てしてくれる。そんな都合の良さってないよ。
私の、この作品の、一番の気にくわなさは、「私には私のMPDGがおらんやん!」の一言に尽きるのかもしれん。私も可愛い女の子のエキセントリックな行動に迷惑被りつつもきちんとフォロー/サポートされて才能を肯定してもらって受動的なまま前向きになって闇落ちしても最後は救って貰いたいよう……なにが圧倒的共感度やねん。
ただ、勿論清澄がこれほどに助けてもらえるのは、彼の圧倒的な音楽の力があるからだ。
良い悪いは置いておいて、この作品って「他者との関わりを忌避していた人が他者との出会いによって人関わることを肯定的に行うようになる」という話じゃなくて「他者と関わりを忌避していた人が関わっても良いと思える理解者と出会えた」という話だ。
他者のバリエーションは少ない。この作品に出てくる他者は二極化されてる。清澄を理解する人か利用する人か。清澄の音楽を肯定する人か否定する人か。多少この間で動く人もいるけれど、あり方としてはそのどちらかしかない。
彼は物語の序盤で自分の音楽を批判される。そして、欠点であった独りよがりな部分を他者とのセッションで改善する……という展開があるが、後半では彼の音楽は一人制作でも全く問題なく売れている。仲間との方が高められるとしても彼の才能は商業的に明らかな価値を持っている。ほぼほぼ、アリバイ的に「批判者」がいるだけで、実際に彼がその批判と向き合うことはない。別に向き合わなくても良いんだけども。
しかし「他人」の解像度の低い。それは作中の観客にも現れてる。複数のアーティストによる複数のライブシーンがあるが、どれもほとんどが若い女性の観客ばかりだ。
これは、少なくとも「女性こそ真の音楽好きだ!」みたいな思想によってなった描写ではないんだろうなと思う。
音楽番組の観覧などでは、「見栄え」のために若い女性を集める*2。それは、若くない人や男性の排除であると同時に、若い女性をアイコン的に使っているとも言える。
時にはエイジズム、ルッキズム、セクシズムと繋げて語られる話だが、それをフィクションの作品でやってしまうと単純に作品のリアリティを損なう。音楽の力を証明すべき作品で、リアリティのないライブシーンを見せてどうするんだと思う。
最後に、良かった点も書いておく。役者陣は良かった。
私がJO1が好きだというのもあるが、拓実くんでなければ私は主人公をもっとはっきり嫌いになっていただろう。というか清澄というキャラクターに説得力を感じなかったと思う。
清澄の持つほっとけなさやほっといておけなさは、拓実くんの存在感によって担保されていたなと思う。
ひよりさんもよかった。潮をマニックピクシードリームガールのようだと言ったけど、そういうエキセントリックな言動を説得力を持たせて演じるのは難しいと思う。一歩間違えると本当に「危ない女」のようになってしまう。この作品のラインからして、潮がこの世界観から完全に浮いてしまわない必要があったはずだろうし。
あと、音楽も良かった。まあ私は音楽を語る知識はないので、結構好きだった。ライブシーンもステージの上の映像は良かったと思う。
(追記:どうでもいいけど深夜に突然、精神的に危うくなっている人が部屋に押しかけてくるという始まりは『異人たちとの夏』『異人たち』を思い出しました)
*1:wikipediaから引用すると「悩める男性の前に現れ、そのエキセントリックさで彼を翻弄しながらも、人生を楽しむことを教える“夢の女の子”」
*2:ちなみ、JO1のドキュメンタリー映画においても、ファンへのインタビューが若い女性ばかりであることが指摘されていた。
〇月〇日、区長になる女。 感想
わずか187票差で決着した2022年の東京都杉並区長選挙で、現職を破った岸本聡子と、岸本さんを擁立し支えた住民達を中心としたドキュメンタリー映画。
映画としては若干手作り感というか、ん?と思ったところもあったのだけど、運動の内側から撮られた映像はとても面白い。中心である岸本さんという人物の魅力というか面白さ(……という表現でいいのかとても迷うけれど。実在人物が出てくる作品の感想ってどう書くか難しい)も存分に伝わってくる。ユーモアがあるというわけじゃなくって、人間味が見えるという意味で。「真っ当に」政治家になろうという人ってやっぱり大変苦労があるんだなあ。政治家とは人々の声を聴くのが仕事だけれども、街頭演説後にあれこれと"アドバイス"をしてくれる人相手に、明らかに話を早く切り上げたい様子でありつつも粗雑な対応にならない姿を見て、あーやっぱこういう人が政治家に向いてるんだろうなあと思った。コミュ力が底を尽きつつある私にはとうてい不可能だ。
しかし個人的に一番面白かったのは、まさにそうした「運動」に付き物の面倒臭さが全開になるシーンだ。
岸本さんを擁立し、支援する市民団体の人々も、決して一枚岩ではなく、これまでの自分たちのやり方があり、主義や主張があり、当然意見は対立する。ハードな選挙の最中でも、ようやく見つけた候補者のサポートだけに徹する、とはならない。
そうした議論の様子を見せることでは、はたから見ればやっぱり政治とか運動とかって面倒な人達ばっかりだ、みたいに思われそうではある。結構ネガティブに見えるかもしれないけれど、取り繕うことなくそうしたシーンが入っているのは少し意外だった。
でも、先ほど言ったように私はそうした面倒くささが存分に見えるシーンが一番面白かったし、そもそもそうやって互いの意見や主張がぶつかり合うことこそが、民主主義の根幹なのだろうな、と思うし、この映画はそれこそを描いているんだろう。
この映画の根幹は岸本さんだが、同時に住民達でもある。
街頭に立って演説をするのは岸本さんだけではない。住民たちが、各駅に一人で立って演説をする試みが象徴している。ただ岸本さんを当選させればいいというだけではなく、区の政治の在り方そのものを変えることが目的だった。選挙は住民達の意見を現実に反映させるためのツールでしかない。だから選挙は終わっても終わらない。
そうした草の根の活動が実を結び、岸本さんが区長となるだけでなく、支援した住民達も区議に立候補して、本当に区政が大きく変化していく様は、「何も変わらない」という諦念を感じざるをえない今の時代において、確かに希望だった。
その鼓動に耳をあてよ 感想
「断らない救急」を掲げている救急医療の現場に密着したドキュメンタリーで、過酷な現場のリアルだけではなく社会的な問題までが見えてくるようになっている。
「救急のなんでも見るのなんでもって病気や年齢などのなんでもだと思っていたが、実際は社会的な問題も含めてのなんでもだった」というような医師の言葉の言葉が象徴的だった。
救急医療というとフィクションイメージで命に関わるような重症患者を救うみたいなシーンを想像しがちで、もちろんそういう患者が運び込まれてもくるけれどそう易々と鮮やかに救うなんてできない。
また、どんぐりを鼻に詰めてしまった少年や、耳に虫が入ったという少女など、比較的緊急性のない症状の患者も来る(もちろんだからといってその苦痛が小さいとは言えないし中々大変な事態だなとは思う)。
更には本当に何かっていうと救急車を呼ぶ近所の人とか、ちょっとこれはクレーマーっぽいなみたいな人もいる。でも、実際に診てみなきゃその人達が病気じゃないかなんてわからないので、かれらは診る。
命に関わる患者と、そうした患者と比べれば少しささやかな症状で現れる患者が対等に存在している視点が傍目にはおもろく、且つ、そうした幅広い例に退治できることが救急の面白さだという医師には、職務に対する矜持が見える。
生活保護の人や、生活保護が切れていた人、寒さに耐えかね暖をとるためにやってきた路上生活者などもいて、当然、医療費が払えない人もいるので、回収できなかった請求書の山も映る。「それでも(医師達が)見るっていうんだから仕方ないですね」と笑う事務方らしき人が印象的だった。
ちなみに舞台挨拶の中で知ったが、そうした赤字を国が補填してくれたりはしないそうだ(あと警察に被害届出して云々とかもできないらしい。まあ命かかわってるからそれはそうだなと思うがならなおのこと国が補填とかしてほしい。私は私と困っている人の生活のためと自分を納得させていやいや税金を支払っているので)。今後も医療費が払えない人はどんどん増えてくるはずで、そんな中で断らないで見てくれるような病院はやっぱり珍しいし、なによりこの掖済会病院もなかなか苦しい状況であるようなので、非常に不安な気持ちになる。
私も大した病気ではなかったが救急にはお世話になったことがある。なんでも診る、と言ってくれるかれらは医療を受ける側からすれば大変ありがたいのだが、やっぱり若手があまり入ってこないそうだ。しかもそれが単にきついからというだけではなく、医療界の中では救急はあんまり立場がよろしくないらしい。お世話になる側からしたら納得がいかないのだけど。ドラマとかでも格好よく描かれているのにそういうもんなのか……。
専門医に比べて、特定の専門を持たずに幅広くみるかれらはちょっと下に見られがちなのだそうだ。救急で対処しきれない患者を専門医に回して嫌味を言われたり、救急で分からなかった症状の原因も専門医なら簡単に見抜く専門性の高さに葛藤したり……なんてシーンもあった。
(どうでもいいけど私はアイドルが好きなので、ここで「まるでアイドルみたいだ」と思った。アイドルは歌ダンスだけでなくトーク力やバラエティ適正、演技などなどたくさんの技能を求められ、そのマルチ性自体が一つの特殊技能だと言えるのに、世間ではバカにされがちで、でもキラキラ輝いている芸能界の花形である)
「救急はキャリアの先が見えない」と言っていたのも驚きだ。なるほど病院内の出世とかそういう話もあるのだろうが、それでも医者なんて最もくいっぱぐれない職業じゃないか?とぶっちゃけ思う。私の将来のが遥かにお先真っ暗だ。
(ただこうしたキャリアの問題に関しては、映画の最後でちょっと希望が見える)
場所柄、工場や港での作業で怪我を負う人も多いらしく、剥がれた爪や釘が刺さった足もばーんと映る。思わずわっとなるけど、痛いのが苦手な私の割にあまりびびらなかったのは、映画の視点が患者ではなく医師達にあったからだろう。
私からすればドラマのような状況でも、現場の人達にとっては日常の業務だ。職場で同僚や後輩と歓談し、救急車からの電話を慣れた口調で受けて、自殺を図った患者の蘇生をとても冷静に試み、コロナ禍で逼迫しとうとう患者の受け入れを拒むことになっても、きっと並々ならぬ感情があって、その緊張感やストレスはとうてい普通の会社員とは比較にならないだろうが、それでも、彼らの声や態度に、自分の職場、或いは街で見かけるさまざまな職業人と同じ温度感があるように思えて、妙なリアルさを感じた。たぶん、編集や演出次第ではいくらでも感動的に、涙を誘う場面を作れただろうが、そうはせず淡々とかれらの仕事を映していた。
葬送のカーネーション 感想
生きることとは死に向かって歩いていくことだ、と言わんばかりの荒涼とした旅路をいく、老人と少女と、遺体の入った棺のロードムービー。
老人と少女・ハリメの関係すら最初は良く分からなかったほど二人には会話がなく、説明的な描写もない。
映画がはじまってすぐ、車中で船をこぐハリメの体が老人の側へと傾くが、老人はハリメの体を支えるでもなく距離を取り、二人の間にリュックを置く。全く情がないわけでもないのだろうが、決して理想化も美化もされない。
ハリメは祖父がなくては生きていけないが、自分を省みず過酷な道へ帯同させる祖父に少なからず批判的で、嫌がらせか、或いはこの旅を諦めさせるためか彼の靴を隠す。
あの子供らしいけれど、それ故にクリティカルな嫌がらせが、強烈に印象に残り、私はそのように解釈した。足を包むビニールが破れていたからか、そっと隠した祖父の靴の中からビニールを交換する周到さも人間味が滲む。
トルコ語の話せない祖父に変わりハリメはトルコ語で通訳をする。同じ難民であり家族であっても、世代を跨がればその体験も違う。ハリメはトルコに長く、きっと祖国への思いも異なる。
戦争や厄災が続き、何も改善されないまま、生まれた土地から強制的に離れされ、戻ることのできないまま世界に忘れ去られた人々がいる。舞台となるトルコとその周辺国がモデルだろうが(というかたぶんまあシリア)、パンフレットではかれらを特定の国の民に設定するのを避けたとあった。難民の物語を寓話として描いている。子供が棺の中で暖を取るシーンは難民のメタファーなのだという。死ぬことによって生き延びる。誰かにとって生まれた土地を離れることは魂を奪われるようなことだ。
と、同時に、難民問題をテーマにしたわけでもないとも書いてあった。もちろん背景に、映画の中の端々に、切り離せない問題として描かれているが、あくまでスーフィズムの価値観を踏襲した心の旅を描いているという。
その死生観は終盤に流れるラジオの中で饒舌に語られる。妻への誓いと、信仰と、望郷の思いで祖国を希求し「帰る」老人の旅は人生そのものだ。この世へと産み落とされ、死ぬことによって戻っていく。故郷とはまさに、我々がかつていて、そして死んで行く場所だ。老人はずっと、自らの棺を背負っているようだった。
しかし、私はやっぱり難民の物語としてこの映画を見てしまっているのか、幻想的なラストシーンでは、今もなお戦火の続く祖国へ、かれらは死ぬことによってでしか帰れないのか……というようなもの悲しさも抱いてしまった。
加えて、これは強制的に大人にならざるを得ない子供の話でもある。
ハリメはこれまでも過酷な現実を目撃してきたことがスケッチブックに描かれた絵から分かる。
祖父の旅路のために、歯車を奪われた玩具を捨て、自分で自分の髪を解き、自分がどこから来たのか――ルーツを目撃し、そして行く先――死を目撃する。そして、この世界で生きていく。